2004年10月23日午後5時56分、マグニチュード6・8、最大震度7の中越地震が新潟県の中越地方を襲った。あれから2年2カ月余が過ぎたが、それぞれが、さまざまな体験をして生きてきた。先生や児童・生徒、住民たちの苦労は、はかり知れないほど大きい。しかし、その中で、みんなが何かをつかんだことも、確かだ。
この間、多くの生徒が卒業し、教職員も転任して行った。現在も残っている中学校の岩田一郎教頭は、出来るだけ記録に残そうと、とりあえず、地震の次の年の3月までの出来事を「帰ろう山古志へ!」と題したレポートにまとめている。それらも参考にしながら「その時」を振り返ってみる。
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5時56分で止まったままの時計。中学校の体育館にあったが、いま、新校舎の玄関わきで、地震の発生時を伝えている |
岩田教頭は、新潟市の自宅に帰っていたが、大きな揺れで大地震ということが分かった。現地とほとんど連絡が取れないまま24日午前6時半ごろ新潟を出て、栃尾市、長岡市を経由して山古志に向かった。しかし、高速道路は使えず、一般道路も寸断されて、途中から車を降りて歩き、7時間がかりでやっと着いた。やっと中学校に入ったが、目に入った光景は信じられないようなものだった。
校舎と体育館のつなぎ目は30センチ離れ廊下の段差は20センチもあった。学校わきの通学路は大きく波を打って、人が歩ける状態ではなかった。コンピュータ室を見ると、18台のパソコンのうち15台が落下、転倒していた。校長室や会議室、理科の準備室などは棚が倒れ込んで入れず、やっと生徒の名簿だけは取り出せたという。
「その時」の体験を山古志中学校が発行した「38人がみた新潟県中越地震」から一部を拾ってみる。
「本棚からは本類が容赦なく落ち別の部屋の方で何かが倒れる音がした」「400b以上の山が一気に崖になっていたのだ。家々は危なげだが、やっと建っている」「大きな食器棚が落ちてきて、ガラスの破片が足に刺さった。父親にどかしてもらって助かった。周りの山々の木々がなくなっていた。全村避難で村を出ていくとき地獄だと思った」という。
24日には、自衛隊のヘリコプターなどによる全村避難が始まった。約700世帯、2200人の住民が長岡市の8カ所の避難所に入った。結びつきの深い村の暮らしの中でできるだけ地区ごとにかたまった。
児童・生徒たちは地震の恐怖におびえた。「夜眠れない」「暗がりにいけない」「トイレに行けない」と訴えた。阪神淡路大震災の教訓もあり、新潟県教育委員会からのカウンセラーの派遣はきわめて早かったという。
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山古志小中学校から見える山崩れ現場。崩落を防ぐ工事が進められた |
25日、小中学校の教職員は、やっと長岡市内にある中越教育事務所に集まった。これから連日、教職員が手分けして8カ所の避難場所を訪問し、避難所ごとに児童・生徒の健康状態の確認や家族の状況の調査をして午後2時にはまとめて、県教委などに連絡。このほか、多くの救援物資の処理と対応、マスコミ関係の対応など物回るほどの忙しい日々が続いた。
そして、11月8日の授業再開を前に保護者への事前説明、間借り先の長岡市立阪之上小、南中との時間割の調整などさまざまな作業に追われた。
これはうれしい忙しさだったが、さまざまな支援申し込みへの対応が続いた。主なものを挙げてみると……新潟市の水族館、新潟アルビレックスの試合への招待、ピアノリサイタルの開催、俳優中越典子さん来校、ギター演奏会、卓球の福原愛子さんの来校などだった。こうした激励を受けてみんな少しづつ元気になっていったという。
最後の山場は、なんといっても引っ越し。壊れた校舎の机やいす、黒板などの備品を使えるものと使えないものに分けて、すでに、被害の少なかった旧山古志村立虫亀小学校に運び入れてあったが、今度は、それを新築された校舎に運ぶために、岩田教頭ら教職員は1週間山古志にこもった。
使えるもの、使えないものを選別し、使えるものの一つひとつに「中校長室机」などと書き込んだ紙を貼り、
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新校舎にも慣れてきた。今日の授業が終わって「さようなら〜」 |
新校舎の平面図にも書き入れた。阪之上小、南中の間借りする際に購入してもらった机やいすも同じような作業をした。 これがないと、荷物は運んでも、どこに何を置けばいいか分からずに、作業は大混乱したと思われるが、スムーズに進んだ。しかし、これで安心はできなかった。この後すぐに、生徒たちの引っ越しと多数の来賓を招いての再開式など次から次と行事が追いかけてきた。
新年を前にした昨年末、岩田教頭はやっと一息ついたが、今年の夏には、児童・生徒合わせて10人ほどが4月に再開する福岡市の玄界中学校を訪問し激励する計画もある。
中学校の小林晃彦校長と小学校の長谷川真一校長は「地震を貴重な体験として、児童、生徒たちが立派に成長することが、お世話になった全国の人たちへのお礼だと思う」と話している。