避難指示が解け、どれだけ戻ってくれるか……
(2016/10/13)印刷する
心のケアも重要に 熊本支援へ児童会発案の募金も
福島県の被災校が置かれている状況は、岩手県や宮城県とは大きく異なります。
東京電力福島第一原子力発電所の事故のため、今なお4万人が県外、4万6千人が県内の各地に避難しています。
学校も現在29小中学校が原発事故で本校舎を使えず、仮設・間借り校舎への移転を余儀なくされたままです。数百人いた児童生徒がわずか一ケタという学校も少なくありません。
そんな中、原発の北にある南相馬市の南部、小高区などに出ていた避難指示が今年7月に解除されました。
これに合わせ、区外に避難している4小学校・1中学校が来春、いっしょに戻る予定です。
その一つ、小高中学校(荒木清隆校長)は市北部の鹿島区にある鹿島小学校の校庭に建つ仮設校舎にいます。
震災前は400人近い生徒がいました。原発から20キロ圏内にあって即時避難となり、鹿島区内で20人ほどで再開しました。いま88人の生徒は仮設・借り上げ住宅などから2系統のスクールバスで通っています。
県大会で6連覇もした女子バレーボール部は3人しかいなくて休部状態です。バスケットボール部は試合ができるぎりぎりの5人、サッカー部は10人で「はじめからレッドカード状態」(荒木校長)です。
荒木校長は「小高区への住民の戻りはにぶい」と言います。避難先で生活の場をいったん築くと、地元に帰るのは次第に難しくなります。小高区への帰還はいま1割ほどとみられます。
いっしょに戻る小高小、金房小、鳩原小、福浦小はともに小高中の校舎に入ります。4校で校長は1人です。
小高中は改修を終えた本校舎の「内覧会」を11月に開く予定で、4小学校の6年生約30人の保護者にも参加を呼びかけています。
「どれくらいの6年生が入学してくれるか、大問題です」と荒木校長は心配顔でした。
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小高中が校庭を借りている鹿島小は原発から30キロ圏外にあり、一時期は仮設校舎に6校が避難していました。
332人の児童の大半は保護者の車の送り迎えで通学し、朝はたいへんなラッシュになります。歩くことと、外で遊ぶ時間が少なくなり、「体力をどうつけるかが大きな課題です」と星国央校長は話します。
体力、そして学力の低下は、どこの被災地にも共通する難題です。
小高区と鹿島区の間にある原町区のほとんどは原発の20~30キロ圏にあり、震災当時は屋内退避が求められました。
中心部にある原町第一小学校の校庭には、除染した汚染土などが埋まっています。この辺りの学校はみんなそうです。校舎や校庭の除染作業で出たものです。
学校の再開からしばらく、校庭の利用は3時間以内、運動会は体育館で、屋外プールでの水泳授業には保護者の承諾書が要る、といった状態が続きました。
いま、そのような状況は脱したとはいえ、悩みは少なくありません。例えば佐藤昌則・原町第一小校長は「体力のためにも、歩く集団登校を再開したいが、踏み切れないのです」と言います。
通学路を含めてすべてが除染されたわけではありません。全国から多くの作業員が入り、大型車も行き交っています。児童の安全確保に自信が持てずに、踏み切れません。
「学力、体力も課題ですが、震災から時間が経つにつれ、心のケアが大事になってきています」というのは、福島県小学校長会の髙橋正之・課題担当部長(福島市立清明小学校長)です。原発事故による避難に伴って学校のクラス数は減っているのですが、発達障害や知的障害の子どもたちをみる特別支援学級が大きく増えているという現実もあります。
福島に対する、事実に基づかない風評や、認識不足による誤解・偏見……。「そういうマイナス面にも負けない強い子に育てたい」。佐藤・原町第一小校長はそう力を込めました。
今年4月からの熊本地震で大きな被害が出ていることを知り、石神第二小や原町第一小などの児童会が自発的に義援金集めを始めました。ほかの被害者を思いやり、自分の痛みとして感ずる。子どもたちが大きく成長しつつあることを先生たちは実感しています。
復興の途にまだつけず
南相馬市の被災校を訪ねるにあたり、福島市でレンタカーを借りて、飯舘村を経由して向かいました。東電福島第一原発の北西、放射線被害を大きく受けたところです。
道脇のあちこちに、除染作業ではいだ汚染土などを入れた黒い袋が積み上げられていました。
避難指示が解かれた南相馬市小高区を夕暮れ時に回ると、明かりのともる家はほんのわずかでした。戻った住民は1割ほどとみられています。
その小高区から南に行ってみました。仙台からここを経て茨城、東京へつながる幹線の国道6号です。震災後しばらく経って、車は通れるようになりました。
浪江町、双葉町、大熊町……。第一原発から数キロしか離れておらず、原発の建屋も一部見えます。沿道の家やレストランのガラスが割れたり草木が生い茂ったりして、荒れ果てています。
国道6号の交差点から脇道に入ろうとしても、バリケードが置かれ、許可証がないと入れません。入れても泊まることはできません。
この辺は、住民が戻れる時期のメドさえ示すことができない「帰還困難区域」を広く抱えています。それを知らせる冷酷な看板が6号沿いのあちこちに立っていました。
復興しようにも出発点さえ見えない。厳しい現実の連鎖を改めて思います。