98歳、小学校のベルマーク仕分けを支えて50年/「わたしの生きがいと責任、まだまだ続ける」/山梨・上野原市の幡野たいさん
(2015/08/20)印刷する
「ベルマークにかかわることが、わたしの生きがいなんですよ」。そう語るのは山梨・上野原市の98歳、幡野(はたの)たいさんです。子どもも孫も卒業した近くの市立上野原小学校(児童495人)のベルマーク活動を支えて50年になります。大病も乗り越え、いまなお自宅でベルマークの仕分けを手伝っています。その原動力は何なのでしょうか。幡野さんにお会いしてきました。
味の素は83番、昔は32番があったわね。43番は東芝、77番湖池屋のポテトチップは種類が多いのよ。ロッテの57番のガムはマークが小さくて、高齢のわたしには大変。毎年、脱会していく会社があって残念ねえ……。すらすらと番号が出てきます。かつての協賛会社の名前もつぎつぎと挙げて懐かしみます。脱会という用語もさりげなく飛び出します。
現役の「仕分け職人」。そんな風格すら漂います。
上野原小がベルマーク運動に参加したのは1965(昭和40)年7月26日ですが、手がけたのは幡野さんです。全国的に運動が始まって5年、各地に広がっていくなかで累計100万点達成第一号の学校が東京で生まれたころでした。
ベルマークを集めれば学校の備品・教材が買え、見知らぬへき地校の支援にもなる。新聞で参加を呼びかける記事を読み、幡野さんは早々にPTAで話を持ちかけました。「大変なのでは」という声もあり、学校全体での参加にはならず、まずは次女が在籍していた4年生の学年委員会で取り組むことになりました。幡野さんのベルマーク人生が始まりました。
以来、半世紀。次女が卒業したあとはもっぱら、自宅2階での仕分け作業が幡野さんの役割になりました。この間、ベルマークも学校ぐるみの活動に変わりました。
学校からは、あらゆるマークが混ざって入ったままの袋が届けられます。これらを協賛会社ごとに整理し、マークに間違いはないか、脱会して使えない会社のマークは混じってないか、などをすべてチェックします。仕分けを終え、点数も数えたうえで学校に戻します。学校はそれを財団に発送し、預金として貯めてきました。
そうした繰り返しの結果、50年間で集めたベルマークの累計点数は241万点を超えました。2006年には、長年貯めていたベルマーク預金でグランドピアノ(104万円)を買いました。その後もたびたび、サッカーボール、ソフトバレーボール、ドッチビーなどの備品を購入してきました。
幡野さんには、しばらくは年1回、袋がどさっと届くことが続いていたといいます。いまは学期ごとに年3回届けられるように変わりました。マークもすべて混ざったままではなく、ベルマーク委員会の児童たちがある程度分類し、幡野さんにバトンタッチしているそうです。
近藤周利(ひろとし)校長によると、ベルマーク委員会ができたのは1984(昭和59)年とみられ、30年以上の歴史です。設立当時、幡野さんは児童たちの指導を任せられました。けれども、放課後わいわいがやがやするばかりで作業がさっぱり進まず、結局は幡野さんが持ち帰って仕分けるということもたびたびあったそうです。思い出のひとつです。
昨年着任した近藤校長は、上野原小では28年前の担任に始まり、教務主任、教頭、校長と4回目の勤務になります。幡野さんとは長いつきあいです。「幡野さんのお力なしではベルマーク委員会は継続できなかったでしょう。ベルマークで学校の財産をつくることができたのも、集めてくれた方々はもちろんですが、幡野さんの存在が大きい。わたしたちも甘えているのかもしれませんが、いつまでもお元気で、ベルマーク活動を支えていただきたいと心から思います」
幡野さんは82歳のとき、「ベルマークは生きがい」と強く感じました。胃がんの手術を受け、「もう帰れない」と覚悟したものの無事に退院し、自宅に戻ったところ、ベルマーク委員の児童たちから寄せ書きが届いたのでした。「早く元気になって下さい」「ぼくらを手伝ってください」と書いてありました。
幡野さんは「わたし、まだまだする仕事がある。あのとき、思いました。やる気が余計、出ましたね」と振り返ります。
50年間続けて来られた力のもとはなんでしょう?
「自分で始めたことですし、途中でやめては申し訳ないですから。責任をもって続けなければ、と思ってやってきただけなんですよ」
幡野さんは笑顔で答えてくれました。