両国の新事務所・稼働/歴史と文化の街を歩こう


(2021/07/09)印刷する

 ベルマーク財団は、6月21日から両国の新事務所で業務を始めました。ベルマークなど財団への郵送物は、財団HPのトップページに赤字で記した両国の住所にお送りください。電話番号、ファクス番号も変わっています。なおホームページのURLやメールアドレスは以前と同じです。

右が財団の入居するビル。JR両国駅東口のほぼ正面です

 新事務所が入居しているビルは、JR総武線の両国駅の東口を出ると、ほぼ目の前にあります。高架線沿いの道路を渡るだけで入り口に着くため、少々の雨なら傘を差さずともそんなにぬれずに飛び込むことができます。事務所には、全国から集まるベルマークを収容する倉庫と事務スペースに加え、最大10人程度が入れる会議スペースもあります。

 両国はJR線路の北側にある大きな屋根の国技館や江戸東京博物館が有名ですが、財団事務所が位置する南側にも様々な名所・旧跡があります。周辺をちょっと散策してみました。

 事務所のあるビルわきの路地には「横綱横丁」という看板がかかっています。細い通りの両側には個性的な飲食店が並び、ランチタイムはかなりの人出です。中には「横綱あんぱん」という商品を売っているパン屋さんも。ちなみに「横綱横丁。。ネオン街」という演歌もあるようで、YouTubeで聴くことが出来ます。

 横丁を抜けると広い通りにぶつかります。国道14号京葉道路です。その角に「芥川龍之介成育の地」という看板がありました。今の中央区で生まれた芥川は、1歳に満たない頃に母の実家のあったこの地へ移り住み、現在の墨田区立両国小学校、都立両国高校に通いました。さすがは文豪、小学生の頃から数多くの文章を執筆していたそうです。


 京葉道路を少し西に行くと、左手にモダンなデザインの山門が見えてきます。回向院です。江戸時代、俗に「振袖火事」とも呼ばれる明暦の大火の犠牲者を弔うために建てられました。境内には義賊ねずみ小僧の墓もあり、「お前立ち」の石を削って持ち帰ると金運・勝負運がアップするとされ、今も参拝客が訪れています。暮石の手前、上側が不ぞろいに欠けているのがその「お前立ち」です。

 境内では江戸後期から相撲の興行が盛んになり、明治時代には初代国技館が建設されました。いまでは回向院の隣、複合施設「両国シティコア」となっているところです。縞模様の中庭の床には、当時の土俵の位置が金属の円と模様の変化で記されています。

 回向院の裏手の道を少し東に行くと、吉良上野介邸跡があります。「忠臣蔵」で有名な赤穂浪士の討ち入りがあったところです。吉良邸は広大な面積がありましたが、その一部が本所松坂町公園として整備され、なまこ塀や黒塗りの屋敷門が再現されています。

 歌舞伎や映画・演劇などで繰り返し語られてきた忠臣蔵ですが、歴史上のリアルな“事件”でもあり、その現場がここ、という訳です。ちなみに事件の発生は元禄15年12月14日でした。

 吉良邸跡の近くには、前に触れた芥川龍之介の母校・両国小学校があります。校舎の角に建てられた文学碑には、代表作のひとつ「杜子春」の一節が刻まれていました。仙人になることを望みながら、地獄の鬼が父母を責める様に耐えられなかった杜子春が、最後に「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです」と語る場面です。

 小学校の道向かいにある墨田区立両国公園に入ると、「勝海舟生誕之地」の碑が目につきました。江戸城を無血開城した勝海舟は、旗本・勝小吉の長男としてこの地で生まれたそうです。長崎海軍伝習所で学び、咸臨丸で渡米するなど幕末に活躍した勝の業績がパネル展示され、記念撮影用?の日本刀付きブロンズ椅子のモニュメントが置かれていました。

 公園から京葉道路に戻ると、マンションの1階に「お江戸両国亭」があります。毎月1~15日に五代目円楽一門会が「両国寄席」を開催しています。折からのコロナ禍で一時は休業したようですが、今は観客数を絞って再開しています。

 財団事務所から小一時間歩くだけで、これらのスポットをすべて回ることができます。ほかにも様々な旧跡があり、両国という土地の歴史と多様性を感じました。

 コロナ禍が続くうちはなかなか難しいとは思いますが、アフターコロナの世界が実現した折には、ぜひ財団見学を兼ねて、両国に遊びに来てみてはいかがでしょうか。そうした日々が早く訪れることを願っています。

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