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東日本大震災関連ニュース

胸詰まる津波体験を共著「海に沈んだ故郷」に込め

ベルマーク理科実験教室の堀込さん夫妻が出版

 東日本大震災が起きてしばらくたった今年3月、ベルマーク財団に1本の電話がかかってきました。「家も津波で流されてしまいましたが、なんとか命だけは助かりました」。電話の主は、財団の理科実験教室の講師をお願いしている堀込智之さん(64)でした。

本を出版した堀込智之さんと奥さんの光子さん=仙台市の自宅で
 堀込さんは宮城県石巻市長面という、海から100メートルほどのところに住んでいました。この地区は津波でほぼ全滅しました。周辺の地域も10メートルを超す津波に何度も襲われ、多くの住民、子どもたちが犠牲になりました。
 堀込さんは奥さんの光子さん(64)と二人で近くのお寺に避難しましたが、津波はそこまで押し寄せ、まさに足を洗われるような間一髪で山の斜面を駆け上り、難を逃れたそうです。被災から8カ月。堀込さんは夫婦でこの恐ろしい体験をまとめ、「海に沈んだ故郷」(連合出版、1800円+税)として出版しました。
 なかでも圧巻なのは、定年まで小学校の教師をしていた光子さんが書いたドキュメンタリー(第一部)です。地震の時のあわてた様子。三日二晩に及んだ山中での避難。気温は零下にまで下がり、そのまま亡くなったお年寄りの悲しい話もありました。
 生き残った家族や親戚、友人たちが避難所などで再会し、喜び合う場面には心温まります。一方で、家族をすべて失い、一人っきりになった女性が「私のことを嫌いなんだか、だれも帰ってこない」とさびしくつぶやいていたという話には胸が詰まります。たくさんの悲しみがありました。
 堀込さんは宮城県女川高校をはじめ、県内の高校で物理の先生を長年つとめ、定年後は「波の仕組みと津波」をテーマに各地の小中学校で実験教室を開いてきました。工学博士で波の専門家でもあり、避難生活にめどが立つとすぐに津波災害の科学的な調査、分析に乗り出しました。地形によって津波の動きはどう変化したのか、なぜ想像以上の高さに達したのか。第二部では、堀込さんが当時の目撃談などを豊富に集めながら、何が起きたのかを科学者の目で突き止めようと迫りました。
 ニュース映像などからはうかがい知れない被災の現実、避難者の心がていねいに描かれています。

≪写真≫本を出版した堀込智之さんと奥さんの光子さん=仙台市の自宅で

(2011/11/14)

被災校援助が本格化

 ベルマーク教育助成財団が東日本大震災への被災校に1校当たり50万円以内、総額1億円の教育設備品や教材を援助する第2次支援「被災校援助プロジェクト」が本格化しています。対象は、申請のあった岩手、宮城、福島、茨城各県の小、中、特別支援学校207校で、10月初めまでに約150校に品物が届いています。(207校の一覧はこちら。


全国からの図書、書棚に収めた 岩手県宮古市立鍬ヶ崎小学校

贈られたポスタープリンターを早速活用 福島県本宮市立五百川小学校

贈られた運動用具使い体育の授業 宮城県石巻市立釜小学校

被災校援助の電動自転車を早速活用 伊達市立梁川小学校

全国からの図書、書棚に収めた    岩手県宮古市立鍬ヶ崎小学校

 廊下に設置された真新しい書棚の前で、子供たちが様々な本を手に取っては興味深そうに目を輝かせています。岩手県宮古市立鍬ヶ崎(くわがさき)小学校は東日本大震災で被災後、全国から3000冊に上る書籍が贈られてきました。その収容に役立っているのが、ベルマーク財団から贈られた書棚です。

 「書棚を贈ってもらって助かっています。1台7万円もし、学校の予算では手がでませんから」。こう話すのは笹川正校長です。同小が希望した書棚は7台で、このうち、3台が9月上旬に届きました。3台とも、高学年が在籍する3階の廊下に置かれました。高さが約80センチ、幅約160センチ、奥行きが約30センチで、3段の木製です。書籍は大小100冊ほど収納できます。
 「被災地のこどもたちに役立てて」と贈られた書籍は小説、図鑑、辞典、絵本など様々。財団から書棚が届くことが決まり、9月初めから、1日当たり6人のボランティアが10日間ほどかけて、書籍の整理をしてくれました。そのうちの300冊ほどが、この書棚に収まったのです。その他は2階の図書室に入れ替えられたり、各階の廊下に置かれた小さめのカラーボックスに入れられたりしました。6年生の図書委員の一人は、「週末に借りていって、週明けに返すようにしています」と笑顔で話してくれました。
 それでも、あまりの多さに、半分ほどは図書室や空き教室に、整理されて置かれています。残り4台の書棚が届いたら、1年生から4年生のいる1、2階に2台ずつ設置の予定です。
 同小学校は鉄筋コンクリート3階建て。大震災では幸い床上浸水は免れました。しかし、隣の体育館は床が浸水し、校庭は津波が約40センチの高さまで海水を運び込みました。ほとんどがヘドロ状態で、酒造会社の仕込みタンクまで流れてきました。笹川校長によると、津波は押し寄せるというのではなく、水がじわりじわりと盛り上がるような感じで、住宅がドミノ倒しのように壊れていったということです。
 同小学校は宮古湾の海から約500メートルの距離にありますが、その間にあった前須賀地区の住宅の大半は破壊され、大震災から半年経過した9月中旬でも、同小の手前から海に向かって、多くは建物の基礎が残っているだけです。同小は海水面よりも3メートルほどが高いだけですが、そのちょっとした丘の部分にあったことが、幸いしたのでしょうか。校庭から海に向かって、眺めると、宮古湾がそのまま見られる光景に呆然としてしまいます。
 同小の児童は3月11日当時、218人。海水は真正面からだけではく、海面に向かって左手の高さ20メートルほどの高台も乗り越えて迫ってきました。笹川校長以下21人の教職員は、子どもたちを校舎のすぐ隣にある熊野神社に誘導しました。神社は山の中腹にあって、同小学校だけではなく、前須賀地区の住民にとっても、災害時の避難場所に指定されていました。子どもたちは一人の被害もなく、全員逃げ切ることができました。笹川校長によると、この辺の宮古湾には高い堤防がないため、大きな地震があると、「すぐに逃げなければならない」、という心構えができていたと話しています。
 大震災後は同小の新学期がスタートする4月25日の直前まで、家が壊された海岸沿いの児童約50人と、住民約150人が、避難所になった校舎で寝泊まりを続けました。その後は、体育館が避難所になり、現在は全員が各地に建設された仮設住宅に移っています。
 同小学校の校庭の一部にも仮設住宅が建ちました。30世帯が入り、ここからも、同小の児童2人が通っています。全体では仮設住宅から通う児童は35人に上ります。
 2学期は始まりましたが、授業はまだ遅れがちで、2学期用の教科書は、2階の図書室に積まれたままです。最近は、突然、「きゃー」と奇声を発する子供が目立ってきています。親の失業などで精神的に不安定になってきているのではないか、と笹川校長はみています。
 今回の大震災で市内各地に、仮設住宅が建設されましたが、その多くが公園だった場所です。この状態が長く続くことで、「子供たちのストレス発散の場が失われることが心配です」と笹川校長。
 同小学校の玄関前の壁には全国各地から寄せられた激励文がたくさん、飾られています。オーストラリアの学校から贈られた3000個の折り鶴もあります。笹川校長は「何にもしなくても、一度、ここの様子をじっくり見て、たくさんの事を感じ取ってもらえるといいと思います」とも話していました。

《写真上から》
・書棚を前に贈られた本を手に取る子供たち
・大震災の約1時間半前に、たまたま学校屋上から撮られた町の様子(左)。現在の写真と比べると大震災の爪痕が分かります
・各地から贈られた激励文=いずれも、岩手県宮古市の鍬ヶ崎小学校で

 

贈られたポスタープリンターを早速活用    福島県本宮市立五百川小学校

贈られたポスタープリンターを使う子どもたち 福島県本宮市立五百川小学校(安斎好孝校長、318人)にはポスタープリンターや業務用掃除機などが贈られました。ポスタープリンターでは、A4判の原本が、A1判に拡大できます。「迫力あるなぁ」「大きいなぁ」。ちょうど秋の運動会用の新聞を作っていた代表委員会のメンバーの6年生たちは、早速色づけして張り出していました。ふだんは先生方が授業の資料作りなどに使っています。「ベルマーク財団からの援助は大変ありがたく、早速活用しています」と安斎校長は話していました。
 郡山市の北側、国道4号とJR東北線に囲まれた田園地帯。訪れた9月13日は、ちょうど実りを迎えた黄金色の稲穂が垂れる水田が広がっていました。大震災とその後の余震で、五百川小学校は、校舎倒壊は免れましたが、現在でも壁にひびが残り、東校舎と西校舎の境目は、壁がはがれたりして、近くにあった特別支援学級は2階から1階に移りました。体育館では蛍光灯が部品ごと落下し、備品の時計、プリンターなどが落ち、使えなくなったものもあります。正門の大谷石で出来た門柱の片方は崩れ、運動場の一角にあった校歌の歌碑は倒れたままです。
 一番大きな問題は放射能です。子どもたちはガラスバッジと呼ばれる積算線量計を付けています。一時は校庭も使え小学校の正門の門柱は片方が崩れたままです=いずれも福島県本宮市立五百川小学校でませんでしたが、5月末に表土を除去しました。消防団が校舎の外壁にホースで水をまき、PTAも協力して窓ふきなどをしました。現在、屋外活動は1日4時間の制限の中、体育の授業や休み時間には、子どもたちが校庭で遊んでいます。しかし学校のプールは使えず、屋内プールに出かけました。ビオトープもなくなり、植物観察なども現状では難しい、のも悩みです。
 こうした状況でも、こどもたちは、隣村の仮設住宅に避難した浪江町の人に、手づくりうちわや風鈴、牛乳パックで作ったいすをプレゼントするなどボランティア活動に積極的に取り組んでいます。運動会は、10月1日(土)。今年は午前中3時間だけで時間も種目も半減しますが、子どもたちは張り切って準備を進めています。運動会のイメージキャラクターは亀の「ガンメ君」。スローガンは「元気なすがたと笑顔を届けよう がんばっぺ五百川」です。

《写真上から》
・贈られたポスタープリンターを使う子どもたち
・小学校の正門の門柱は片方が崩れたままです=いずれも福島県本宮市立五百川小学校で

 

贈られた運動用具使い体育の授業    宮城県石巻市立釜小学校

 「打った、打った」「おーい、ボール拾え」。きれいに整地された校庭に、子どもたちの元気な声が響き渡りました。まだ夏を思わせる暑さの9月15日午後、宮城県石巻市立釜小学校にベルマーク財団からソフトボールセットが届けられ、この日は大震災後、用具が揃っての初めての体育授業になりました。

道具が揃って初めてのソフトボール授業をする子どもたち
 6年2組の子どもたちで、6時間目の午後2時45分から午後3時半にかけて授業がありました。「本当にありがたいです。何しろ、校庭の倉庫は海水につかって、用具はほとんど、ダメになりましたから」。津田浩校長は話します。
 ソフトボール2セットが届いたのは9月初め。2セット合計でグローブ20個、マスク2個、バット4本、ボール24個。このほか、ノーパンク一運動会の練習かな。昼休み、低学年のこどもが楽しそうにポーズ輪車が高学年用、低学年用それぞれ5台。休み時間に、校庭で乗ります。
 それにポータブルワイヤレスアンプ1台。校舎1階の放送室はこちらも津波で海水につかり、部屋とともに、放送機材がやられました。ワイヤレスアンプは校庭に集まった子供たちに話しかける時などに威力を発揮しています。
 津田校長は、やや落ち着きを取り戻したかのように話されていますが、大震災から半年が経過してもなお、学校全体を見渡せば、災害の爪痕が癒(い)えたとまでは、とても言えない状況が続いています。
 3月11日。小学校は、石巻工業港(外港)から、約1.5キロ内陸の大街道西2丁目の商工業地と住宅地が混在した、大変活気のある地区にありましたが、小学校のすぐ裏側を流れる北上運河からと、海側の両側から津波が何度も何度も押し寄せる形になりました。校庭での津波の高さは約1.6メートル。校庭にはガレキとともに、乗用車が何台も押し寄せました。その後、海水が引いてもヘドロのようなドロドロした状態が何日も続きました。
 震災時、釜小学校には約670人の児童の多くがまだ、学校に残っていました。先生たちは津波到来を避けるように急いで、校舎の3階、4階に誘導しました。その間、近所の住民たちも学校に逃げ込んできました。その数約350人。学校の近くに高台や山はありません。「逃げ込む所は他にないので、学校が持たなかったらどうしようかと、その日は心配でたまりませんでした」と津田校長。
 どことも連絡が取れず、福田秀満教頭は「まさに陸の孤島ということでした」と振り返ります。救援隊がやってきたのは3日目の昼。海上自水につかり、今も使えない放送室=いずれも石巻市立釜小学校で衛隊の先遣隊員2人が自衛艦からボートに乗り継いで上陸し、ヘドロをかき分けるようにして、海岸から歩いてやってきたのです。それからは食糧、毛布などが届けられるようになり、一息つけるようになりました。
 1階の教室が使えるようになったのは、4月21日の始業式、入学式になってから。校庭は2学期が始まった8月21日からです。ボランティアの協力があったればこそ、の復旧です。一方で、体育館は現在も避難所として使われ、まだ36人の方が段ボールで間仕切りしながら、不自由な生活を続けておられます。
 そして、最も可哀想なことに、3月11日の大震災の時、保護者と一緒に帰って行った子どもたちが、またこの日たまたま欠席した子どもたちが、たくさん、亡くなってしまったのです。助かった子どもたちも先生たちも、心に大きな傷を負ったのです。4階建ての2棟の校舎は幸いなことに昨年、耐震補強工事が行われていて、外見では今は、壊れた感じがありません。
 しかし、避難所になった体育館の他、家庭科教室や理科室、放送室も津波で壊れたままで使えません。防火用水としての機能を持つプールも壊れています。1階のボイラー室も海水でやられていて、今後寒さに向かって、集中暖房が機能しないことが心配の種です。授業の焼けこげた石巻市立門脇小学校跡(同市門脇町で)遅れは、土曜日授業などで、だいぶ挽回しました。しかし、行事への影響は避けられません。恒例の学芸会は今年、中止です。秋の運動会は10月30日に、PTAの秋祭りと組み合わせで行われることになりました。
 児童の数は転校などで、震災前よりも約160人減って現在513人になりました。子どもたちは半年が経ち、元気そうに見えますが、例えばイスがずれる音がしても、地震を思い出して不安そうな表情になります。小さな地震でも、先生が特に指示しないのに、さっと机の下に隠れます。
 「精神的にも物質的にも、いろんなことが復旧するには1年はかかりそうです」と津田校長はみています。
 学校から海側の工業港、漁港周辺は相当部分、ガレキが取り除かれています。しかし、大きなコンクリートの建物は、だれもいない巨大な残骸と化し、密集していたはずの住宅地は基礎だけを残して平地になっています。地震による地盤沈下で、海水が流れ込んだままのところも、そこかしこにあります。釜小学校から東南東に約3キロの住宅地にあった門脇(かどのわき)小学校は、地震による火災で、燃え上がる鉄筋コンクリートの巨体をさらしながら津波にも洗われました。今も焼けこげた形のままでその場にのこされています。
 そんな被災の苦しみの中ではありましたが、釜小学校でソフトボールをする子どもたちを激励しながら走り回る6年2組の遠藤智弥教諭は「ソフトボールがちゃんとできるようになって、うれしいですよ。感謝しています」と日焼けした笑顔で話していました。

《写真上から》
・道具が揃って初めてのソフトボール授業をする子どもたち
・運動会の練習かな。昼休み、低学年のこどもが楽しそうにポーズ
・水につかり、今も使えない放送室=いずれも石巻市立釜小学校で
・焼けこげた石巻市立門脇小学校跡(同市門脇町で)

 

被災校援助の電動自転車を早速活用  福島県の伊達市立梁川小学校からお礼

 東日本大震災「被災207校援助プロジェクト」として電動自転車などを贈った福島県伊達市立梁川小学校(五十嵐清夫校長、493人)からベルマーク教育助成財団に9月12日、お礼状が届きました。校舎が全壊扱いとなり、児童たちは近くの高校と中学に別れて勉強していますが、その間を往復する先生方が早速活用しているそうです。
 援助品は、この電動自転車1台のほか帳簿収納ロッカーやプリンター複合機です。年内にも中学校隣接地に仮校舎の建設が始まり、年明けには児童たちが同じ仮校舎内に戻れる予定で、ロッカーや複合機もますます重宝されるでしょう。
 同校は、大震災で3階建て校舎の主だった柱や構造物にひびが入るなどして壊れる危険が生じました。体育館だけは難を免れて体育の授業が行われていますが、教室での授業は3年生以下が梁川中学校、4年生以上が梁川高校に分かれ、空き教室などを利用して行われています。小中高3校それぞれ数百㍍の間を1日何回も行き来する先生方もおり、この移動に「電動自転車を活用したい」という希望がかなったというわけです。
 プレハブ仮校舎建設の後には新校舎建設計画も準備に入ったとのことです。五十嵐校長は「梁川小学校は一つ、を合言葉に全校児童、職員が一丸となってがんばります」とお礼状に書いてくれました。阿部雅好教頭も「原発事故による表土汚染の問題もありますが、学校教育の充実に尽くしたい。ベルマークによる援助には教職員一同感謝しています」と話しています。

(2011/11/07)

東京・下町のドコモショップが5400点寄贈

「なつかしいベルマークで被災校支援できるなんて」

 東日本大震災の被災校支援に役立てて、と株式会社NTTドコモ丸の内支店内のドコモショップ門前仲町店、立石店、青砥店などで集めたベルマーク約5400点を11月4日、3店の窓口担当者がベルマーク財団にドコモショップ届けてくれました。
 それらの店では従業員たちが「被災地のために何かできないか」と話し合い、丸の内支店の販売企画担当者にも相談しました。その結果、「ベルマーク収集がもっと具体的で実行しやすい」と、6月中旬から収集を始めました。店内のカウンターごとに手作りの回収ボックスを置いたり、オリジナルのポスターを店内に張り出したりして、訪れるお客様に運動への参加を呼び掛けました。
 各店とも下町にあるせいか、ベルマークになじみの深いお客様が多く、「子どもは大人になったけど、くせで捨てられなくて」「なつかしいベルマークが役立つなんて」といった反響があったそうです。契約を済ませた後で、わざわざベルマークを持って来てくれる主婦もいました。
 財団に届けてくれたドコモショップ立石店の窓口担当チーフの後藤愛実さんは「ベルマークで被災地の子どもたちに少しでも役立ってくれればという思いで、従業員もお客様たちも持ち寄ってくれました。収集はまだまだ続けます」と話していました。

≪写真≫ドコモショップの窓口担当者の女性らが届けてくれました

(2011/11/04)

親子で寄贈ベルマークを「ちょボラ」

震災支援へ鳥取市の久松小で「文化講座」で仕分け 東日本大震災支援のために、とベルマーク教育助成財団に全国から寄せられたベルマーク(寄贈ベルマーク)を仕分けするボランティア活動が10月30日、鳥取市の久��

あいおいニッセイ同和損保が被災地支援活動報告

広島で「たすけ愛・ささえ愛の集い」、マーク収集活動も 協賛会社あいおいニッセイ同和損保が東日本大震災被災地復興支援のために全国で展開している「たすけ愛・ささえ愛プロジェクト」の中国地区の集いが10月�

友愛援助寄付、2400万円超す

寄贈マークは7500件に ベルマーク運動参加校・団体からの緊急友愛援助寄付金は9月末現在で571件、2487万円に達しています。この寄付金は、財団の不測事態準備資金、海外援助費の圧縮、協賛会社キユー�

福岡朝日会が大震災支援に大量の寄贈マーク

 福岡、筑後地区の朝日新聞販売所(ASA)55店舗でつくる福岡朝日会(奈良崎誠会長)が10月12日、東日本大震災の被災地支援のため、読者らから寄せられたベルマークをベルマーク教育助成財団に贈りました。

名古屋市朝日会が41万余点のベルマーク寄贈

「被災校支援に」、読者へ呼びかけて回収 朝日新聞の販売所(ASA)で組織する名古屋市朝日会(熊谷明男会長、35店)が10月12日、ベルマーク教育助成財団名古屋事務所に「東日本大震災で被害を受けた学校�

授業や催し活用し仕分けボランティア

沖縄市立高原小学校 沖縄市立高原小学校(長田千代子校長、828人)はPTA・児童・学校がスクラムを組み、夏休みの催しや授業を活用して、寄贈ベルマークの仕分け・集計に取り組んでくれました。 作業のスタ�

エフエム東京番組リスナーから8万点余の寄贈

 ラジオのエフエム東京(TOKYO FM)の番組「LOVE CONNECTION」(毎週月~金曜日、11時30分~13時)が、大震災支援のためにベルマーク提供をリスナーに呼びかけ、集まったマークをベル

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            ベルマークから、ありがとう。

ベルマーク教育助成財団 tel:03-5148-7255