◆◆◆ 山古志特集 ◆◆◆



記事目次




励ましと支援、山古志に響く

 すべての住民を恐怖のどん底に陥れた新潟県中越地震から2年余りがたちました。大きな被害を受けた、山古志村(現在、長岡市)には、山古志小学校と中学校の校舎が新築され、昨年10月に再開式も開かれました。この式典の後、ベルマーク教育助成財団は、全国の運動参加校の皆さんからの援助として、児童・生徒を激励するために合計100万円相当の贈呈目録を渡しました。これに対して長谷川新一・山古志小学校長、中学校の小林晃彦校長からは「全国の皆さんの温かい支援に心から感謝します」など、丁重な謝辞が述べられました。
  山古志地区は、積雪が3bほどになる、新潟県でも有数の豪雪地帯。このため小学校は、援助金で2台の大型温風暖房機などを購入、中学校はセーフティーマットを買い、体育の時間やクラブ活動などに有効に使わせていただくそうです。中越地震の被災校については、1次(2005年1月)、2次(同年7月)援助合わせて、6200万円相当の備品を中越地区の学校などに贈呈してきましたが、その際、両校はステレオテレビやポスタープリンターなどを購入しており、「重ね重ね本当にありがたい」と、参加校の皆さんに何度も感謝の言葉を繰り返していました。
  こうした援助は山古志だけでなく、福岡県西方沖地震で被災した玄界小中学校や三宅島の噴火で疎開して、復島した三宅島の小、中学校や高校、さらにさかのぼれば阪神淡路大震災で被災した多くの学校にも贈られました。「もの」だけではない、心の交流も始まっています。山古志は三宅島の児童・生徒たちに励まされ、山古志の児童・生徒は、玄界の子供たちを激励、神戸の生徒たちは「災害を忘れないように」と、山古志を訪問するなど「優しさ」「激励」「学習」のリレー、キャッチボールを続けています。山古志中や玄界中、三宅中などはベルマーク参加校で、交流の中で運動についての会話がはずむことも期待したいものです。
  援助を贈呈する際、財団側から挨拶をしますが、「これらの援助は、全国のPTAの皆さんからの贈り物です」と話します。そして「お返しは、(援助を受ける)皆さんがベルマーク運動を一生懸命に続けてくれることです」と付け加えます。中越地区の場合、これに十分応えてくれました。04年度の新潟県内の集票点数ベスト20を見ると、中越地区の学校は6校でしたが、05年度は小出小(魚沼市)、川崎小(長岡市)、小千谷小(小千谷市)、田麦山小(川口町)など12校(幼稚園などを含む)と倍増しました。


コカリナ奏者が感動し作曲「ありがとう」

 真っ青な空が広がった昨年の10月30日、建て替えられた長岡市立山古志小、中学校(地震発生当時は山古志村立)で再開記念式が開かれた。これまでに経験したことのない驚きと恐怖、混乱、そして不安…それらを耐え抜いてきた小学生が66人、中学生は44人。この日を首を長くして待っていただけに、みんなの顔が輝いていた。
再開式で全国の人たちに感謝の心を込めて歌う山古志の子どもたち
  式典には、長岡市長ら地元関係者やベルマーク財団の森精一郎・事務局長ら県外からの来賓合わせて約80人が出席、数10人の報道陣も詰めかけて、にぎやかになった。
  最初に山古志小学校の長谷川新一校長が、支援してくれた全国の人たちへの感謝の言葉を述べた。このあと小、中学生に分かれての記念合唱。まず、小学生からスタートした。

♪〜 かなしいときに あのひとは
あったかいあくしゅ してくれた
うれしかった やさしかった
ふるえるほど ありがたかった
なにかおれいを したいけど
こころをこめて ありがとう
          (中 略)
♪〜 ひとはだれも ひとりでは
いきていけない ものだから
じんせいの たからもの
ふるえるほど ありがたかった
いつかきっと ひとのため
キラリかがやく ひとになる
♪〜 なにかおれいを したいけど
こころをこめて ありがとう〜

 かわいい歌声が、響き渡って、胸を打ち、目頭を熱くしている来賓も数多くいた。この歌を作ってくれたのが、コカリナ奏者の黒坂黒太郎さん(57)=東京都江東区大島。中越地区は何度もコンサートを開いているなじみの深いところだ。知人と話したところ「物資は、それなりにあるけど、怖さが残っている。精神的な援助がほしい」ということだった。
コカリナをふく黒坂黒太郎さん
早速、一緒に演奏したりするNHK交響楽団のハープ奏者早川りさこさんと話して、「明日は味方」を作りCDにした。これを山古志地区の住民に配りながら、長岡市や川口町の仮設住宅の集会場でコカリナのコンサートも開いた。
  震災から半年ほど経って、地元の人の案内で山古志へ行って驚いた。大木がバタバタと倒れていた。小学校の校門近くにあったマツやサクラも太い枝が折れて無残な姿をさらしていた。
  「この木でコカリナを作り子供たちに吹いてもらおう」。地元の人も協力してくれて3カ月後には出来上がり、山古志小学校の児童全員に贈った。
  これから黒坂さんと子供たちの本格的な交流が始まった。子供たちが書いた文集が送られてきた。その中には、地震に対する恐怖感や生活の苦しさなどがいたるところに書き連ねられてあった。
  2006年にも文集が送られてきたが、まったく内容が違っていた。「全国の皆さんありがとう」「この恩は忘れない」。感謝の言葉があふれていた。「書いてある言葉に心が震えましたよ」という。それが「ありがとう」の曲を作るきっかけだった。文集のなかの言葉を一つひとつ拾って書いて、それを2カ月かけて曲にした。
  再開式で来賓の目頭を熱くしたのは、厳しい状況の中で人々の優しさを痛感し、明日に向かって生きていく子供たちの歌声とコカリナの響きだった。
  山古志小の五十嵐達生君(6年生)は「苦しかったけど全国の皆さんのおかげで、ここまできました。本当に言葉にならないぐらいありがたかった。黒坂先生の歌にそんな気持ちが込もっています」という。一方、黒坂さんは「子供もいいけど、親たちもいい。みんなそれぞれが助け合って生きている。それが素晴らしい。山古志へ行くと、心が落ち着くんですよ」と話している。
<メモ>コカリナは、ハンガリーの民族楽器。「サクラで作られたオカリナ」ともいわれる。サクラだけでなく、カエデやスギ、クルミなどでも作られる。大きさは2・6センチから8センチぐらいまである。


― 山古志から全国へ 広がり深まる交流

「玄界」励ましに勇気づけられお礼の手紙

 05年3月に発生した福岡西方沖地震から1年10カ月。最も大きな被害を受けた福岡市西区・玄界島の住民は、島内の仮設住宅100戸と、高速船で約30分の博多港近くにある仮設住宅100戸に分かれて暮らし、いまも不自由な生活が続く。
山古志中学校から届いた励ましの手紙。生徒全員の写真と、一人ひとりがメッセージを書いている
玄界小、中学校の児童・生徒は島を離れ、仮設住宅近くの学校で勉強しながら、今年4月からの島での授業再開を心待ちにしている。
  玄界中学校(野原雅彦校長、13人)は、05年7月から市中心部の福岡城跡にある舞鶴中学校校舎を借りている。別の中学校を間借りしていた5月のある日、思いがけない電話があったという。山古志中学校の生徒会長からだった。
  電話を受けた永石義信教頭によると「中越地震で被災した時に全国から支援を受け、勇気づけられました。今度は自分たちが支援する番です。それが支援してくれた人たちへのお礼にもなると思います。必要な物はありませんか」という内容だ。生徒会長は募金活動を計画していたようだが、永石教頭の「励ましの言葉が、なにより子どもたちを元気づけると思います」との言葉に、生徒会長は「(校舎を借りている)南中学の生徒会とも相談してみます」と答えたという。
  夏になって激励の手紙が届いた。学年ごとに新聞紙大の用紙に、生徒の写真を張りつけ、一人ひとりがメッセージを書き込んでいた。
山古志中学校から贈られた励ましの寄せ書きを手にする野原雅彦校長(左)と永石義信教頭。中央には山古志地区特産のニシキゴイが描かれている
「お互い前向きにがんばろう」「ガンバレ!!玄界島 ファイト!!玄界島」「力をあわせてがんばりましょう」。野原校長は「まだまだ混乱している状態だったので、生徒はもちろん、私たち教師もうれしかった」と、当時を振り返る。地震被害、全島避難と全村避難、仮設住宅での生活。同じ境遇の玄界と山古志の心がつながり、交流が始まった。
  玄界中学は、13人の生徒全員がお礼の手紙を書いた。卒業式に併せて折り紙でつくった兜(かぶと)とペガサスの置物を贈ると、手づくりのだるまが届いた。永石教頭は「玄界の数カ月後の姿であり、お手本にしたい」と、復興に取り組む学校や地域の様子を視察した。野原校長は、昨年11月に山古志中学に出かけ、新校舎での2年ぶりの授業再開を祝った。「2学期には、山古志から玄界島に来てもらい、励まされ、勇気づけられて復興した島を見ていただきたい」と、野原校長は話している。 

                     ×  ×  ×  

  住宅200棟余りの7割が全半壊するなど、大きな被害を受けた玄界島は、復興事業が急ピッチ。玄界中学の校舎は、幸い深刻な被害がなかったため、現校舎の補修・改修が終わる新年度の4月から授業を再開する。玄界小は、被害が大きく、新築工事が完成するまで、中学校のグラウンドに造った仮校舎で勉強する。

「三宅」本箱から始まった心の交流

 「この天草(テングサ)、学校再開を記念して山古志中学校に贈ろう」。三宅中学校の三年生は昨年11月下旬、シーカヤックの授業で採取し、天日乾燥した天草80袋(1袋10人前)を2年ぶりに再建された山古志中学校に贈った。寒天の作り方のレシピと「学校再開、おめでとうございます」という手紙も添えた。
  三宅島雄山の噴火で避難授業を続けていた三宅中と中越地震で間借り授業を続けていた山古志中との間で交流が始まったのは2005年の年が明けた極寒のころだった。「山古志中学ではきっと困っているだろう」と、三宅中の先生と生徒十数人は技術の時間に作った本箱を贈ることを決めた。学校で使っていたバスに本箱を乗せ、先生と生徒代表が新潟に向かった。当時新潟の山は積雪4、5mの豪雪。目的地を目前にしながらバスは引き返さざるを得なかった。
  本箱はその後郵送されてきて、いま山古志中の教室わきの廊下に置かれ、大切に使われている。「子どもたちは喜びました。あの大雪の中で、よくぞ来ようとしてくれました」と山古志中の岩田一郎教頭は当時を振り返る。
  05年春、5年ぶりに全島避難が解除され、三宅中は故郷に戻った。11月に山古志中の先生方が激励に訪れ、神戸から贈られ、育てたヒマワリの種を三宅中にプレゼントした。そのヒマワリは昨夏、大輪の花を咲かせた。「今度は、福岡の玄界中学校にこの種を 贈ろう」。三宅、山古志、玄界と、思いやりの心がつながった。

「神戸」ネットアート交換から本格的交流

 山古志中は、2005年の秋、神戸市の市立白川台中と網に布片などを付けてコイなどを形づくった「ネットアート」の交換をしてから本格的な交流を始めた。次の年の2月には、山古志の生徒がバスで神戸に行き、防災センターで阪神淡路大震災の様子を映像で見た。崩れ落ちたビル、瓦解した高速道路、燃え上がる住宅など都市災害の生々しい現実を見て生徒たちは、大きなショックを受けたという。しかし、そのあと白川中の生徒たちの案内で神戸市内を見学した時に、また驚いた。「こんなに立派に復活できるのだ。自分たちもやれる」と、話し合ったという。
  そして、この年の夏には白川台の生徒や先生ら30人ほどが山古志を訪れた。学校のある須磨区も大きな被害を受けたが、生徒たちはまだ幼児で、本当の意味で災害の恐ろしさを感じ、記憶しているわけでもないようだ。そこで、「あの恐ろしい震災を忘れてはいけない」ということで、山古志を訪問し、交流を深めた。

ヒマワリが結ぶ大輪の花リレー

 ヒマワリを復興のシンボルにしようと、ヒマワリの種が神戸市から旧山古志村、三宅島にリレーされ、大輪の花を咲かせた。玄界島でも、山古志地区で昨年取れた種をまき、この夏にヒマワリを咲かせる準備が進んでいる。
  橋渡し役は、95年の阪神大震災で自身も被災、ボランティア活動に取り組んできた神戸市のNPO法人「ひまわりの夢企画」代表の荒井勣(いさお)さん。荒井さんは、震災前から青少年健全育成活動「ひまわりの花いっぱい運動」に参加。震災直後から、仮設風呂の提供などボランティア活動を続けるなかで「太陽の花ヒマワリがもつ、明るさや元気が被災者の励ましになるのでは」と考えた。「ガレキの町にヒマワリの種をまこう」「夢を失ってまっ暗な町を、大輪の花でまっ黄色にしよう」と、ドラム缶3杯半の種を配ったという。被災者やボランティアが仮設住宅の空き地や公園などに植えた。ヒマワリは、いまも毎年夏に鮮やかな黄色の花をつける。
  3年前の中越地震。支援に駆けつけた荒井さんは、活動のひとつに、神戸で育ったヒマワリの種を旧山古志村などに贈った。神戸から山古志へのバトンリレーだ。山古志から三宅島のリレーは、中学校同士の交流がきっかけ。一昨年11月に山古志中学の先生が三宅島を訪れ、「神戸と山古志の仮設住宅で咲いたヒマワリです」のメッセージを添えて、種をプレゼントした。
  今年の夏、山古志で育ったヒマワリの種は、玄界島で「交流の輪」の大きな花を咲かせるだろう。荒井さんは「ヒマワリを通じて、被災地の人たちが復興へ前向きの気持ちをもってもらえたら。玄界島にも出かけたい」と話している。


― 衝撃・恐怖乗り越え2年 ―

子どもたち笑顔戻った

 2004年10月23日午後5時56分、マグニチュード6・8、最大震度7の中越地震が新潟県の中越地方を襲った。あれから2年2カ月余が過ぎたが、それぞれが、さまざまな体験をして生きてきた。先生や児童・生徒、住民たちの苦労は、はかり知れないほど大きい。しかし、その中で、みんなが何かをつかんだことも、確かだ。
  この間、多くの生徒が卒業し、教職員も転任して行った。現在も残っている中学校の岩田一郎教頭は、出来るだけ記録に残そうと、とりあえず、地震の次の年の3月までの出来事を「帰ろう山古志へ!」と題したレポートにまとめている。それらも参考にしながら「その時」を振り返ってみる。
5時56分で止まったままの時計。中学校の体育館にあったが、いま、新校舎の玄関わきで、地震の発生時を伝えている
  岩田教頭は、新潟市の自宅に帰っていたが、大きな揺れで大地震ということが分かった。現地とほとんど連絡が取れないまま24日午前6時半ごろ新潟を出て、栃尾市、長岡市を経由して山古志に向かった。しかし、高速道路は使えず、一般道路も寸断されて、途中から車を降りて歩き、7時間がかりでやっと着いた。やっと中学校に入ったが、目に入った光景は信じられないようなものだった。
  校舎と体育館のつなぎ目は30センチ離れ廊下の段差は20センチもあった。学校わきの通学路は大きく波を打って、人が歩ける状態ではなかった。コンピュータ室を見ると、18台のパソコンのうち15台が落下、転倒していた。校長室や会議室、理科の準備室などは棚が倒れ込んで入れず、やっと生徒の名簿だけは取り出せたという。
 「その時」の体験を山古志中学校が発行した「38人がみた新潟県中越地震」から一部を拾ってみる。
  「本棚からは本類が容赦なく落ち別の部屋の方で何かが倒れる音がした」「400b以上の山が一気に崖になっていたのだ。家々は危なげだが、やっと建っている」「大きな食器棚が落ちてきて、ガラスの破片が足に刺さった。父親にどかしてもらって助かった。周りの山々の木々がなくなっていた。全村避難で村を出ていくとき地獄だと思った」という。
  24日には、自衛隊のヘリコプターなどによる全村避難が始まった。約700世帯、2200人の住民が長岡市の8カ所の避難所に入った。結びつきの深い村の暮らしの中でできるだけ地区ごとにかたまった。
  児童・生徒たちは地震の恐怖におびえた。「夜眠れない」「暗がりにいけない」「トイレに行けない」と訴えた。阪神淡路大震災の教訓もあり、新潟県教育委員会からのカウンセラーの派遣はきわめて早かったという。
山古志小中学校から見える山崩れ現場。崩落を防ぐ工事が進められた
  25日、小中学校の教職員は、やっと長岡市内にある中越教育事務所に集まった。これから連日、教職員が手分けして8カ所の避難場所を訪問し、避難所ごとに児童・生徒の健康状態の確認や家族の状況の調査をして午後2時にはまとめて、県教委などに連絡。このほか、多くの救援物資の処理と対応、マスコミ関係の対応など物回るほどの忙しい日々が続いた。
  そして、11月8日の授業再開を前に保護者への事前説明、間借り先の長岡市立阪之上小、南中との時間割の調整などさまざまな作業に追われた。
  これはうれしい忙しさだったが、さまざまな支援申し込みへの対応が続いた。主なものを挙げてみると……新潟市の水族館、新潟アルビレックスの試合への招待、ピアノリサイタルの開催、俳優中越典子さん来校、ギター演奏会、卓球の福原愛子さんの来校などだった。こうした激励を受けてみんな少しづつ元気になっていったという。
  最後の山場は、なんといっても引っ越し。壊れた校舎の机やいす、黒板などの備品を使えるものと使えないものに分けて、すでに、被害の少なかった旧山古志村立虫亀小学校に運び入れてあったが、今度は、それを新築された校舎に運ぶために、岩田教頭ら教職員は1週間山古志にこもった。
 使えるもの、使えないものを選別し、使えるものの一つひとつに「中校長室机」などと書き込んだ紙を貼り、
新校舎にも慣れてきた。今日の授業が終わって「さようなら〜」
新校舎の平面図にも書き入れた。阪之上小、南中の間借りする際に購入してもらった机やいすも同じような作業をした。 これがないと、荷物は運んでも、どこに何を置けばいいか分からずに、作業は大混乱したと思われるが、スムーズに進んだ。しかし、これで安心はできなかった。この後すぐに、生徒たちの引っ越しと多数の来賓を招いての再開式など次から次と行事が追いかけてきた。
  新年を前にした昨年末、岩田教頭はやっと一息ついたが、今年の夏には、児童・生徒合わせて10人ほどが4月に再開する福岡市の玄界中学校を訪問し激励する計画もある。
  中学校の小林晃彦校長と小学校の長谷川真一校長は「地震を貴重な体験として、児童、生徒たちが立派に成長することが、お世話になった全国の人たちへのお礼だと思う」と話している。

避難生活、友情生まれた

 「10月25日、私は悲しい別れをしました。私が通う学校で、2年間いっしょに過ごしていた山古志小学校の大好きな友達とお別れでした。(中略)中越地震は私たちの住む中越地区の生活に多くのひ害をもたらしました。でも私にとって一生の宝物になる友達をあたえてくれました(後略)」
  これは、地元紙に載った長岡市立阪之上小学校の5年生の児童の投書。2004年11月8日から06年10月25日まで同小に間借りしていた山古志小学校の友達との別れを書いたもので、阪之上の高橋幸雄校長は、このコピーを大切に持っている。
  「両校の子供たちの間で何もなかったわけではありませんが、思いがつながったようです。私自身も山古志の子供たちが学校を出て行くときは、卒業生を見送るような気持ちでした」と振り返る。
  阪之上は各学年2クラスで全校児童約300人。山古志は各学年1クラスで66人。どんな授業をすればいいのか。2校の児童を完全に混ぜて授業をする案もあったが、両校それぞれに独自性をもってやっていくことにした。ただ、運動会や音楽会、雪祭りなどの行事は合同方式だった。それぞれ友達も出来てお別れの会では別れ難く泣き出す児童もいた。
  児童だけではなく、PTAのお母さんたちも、思いを込めた。PTAの図書館ボランティアの母親たちは激励の造花をプレゼした。そして、数人が新築された山古志小まで行って図書館の本の整理の手伝いもしたという。
  深まった絆の象徴として「共同生活記念旗」を交換し合った。「またいつか 会える日まで」「すてきな笑顔 忘れません」というメッセージに児童全員の名前が書かれている旗は、山古志小学校の玄関に貼ってあり、子供たちの出入りを見守っている。

                        ◇

  10月の同じ日、中学もお別れ。夕方6時ごろ、山古志中の44人の生徒と教職員が間借りしていた長岡市立南中学校の校門を出ようとしたとき、突然、励ましの演奏が始まった。それは事前に計画したものではなく、南中の先生たちも驚いた。
 30人ほどの部員が校門近くに集まってきて、見送りの曲を奏でたのだ。曲名は「蛍の光」ではなく、これからの苦難も乗り越えて頑張れと、映画「ウォーターボーイズ」のテーマ曲だった。
  生徒たちはさまざまな思い出を作ったが、山古志の生徒が去った後、南中の古い廊下はぴかぴかに磨かれていた。トイレも前よりもきれいになっていた。「せめてもの恩返しに」と、1週間も前から磨き始めたという。中には、仮設住宅住まいの高齢者や父母も手伝いにきて掃除をしていたという。
  吉沢嘉一郎校長は「年頃の子供だし何もないことはなかった。廊下ですれ違ったときに、目があったとかそんなトラブルはあったんですが、そのうちうちとけあっていきました」という。こうして生まれた結びつきが、退校時に残っていた南中の1、2年生のほとんどが見送る中での激励演奏になったのだろう。


米百俵「教育大切に」の風土

 中越地震は、新潟県長岡市内でも震度6弱を観測、一般住宅はもちろん道路なども大きな被害を受けた。山古志小学校が間借りしていた市立阪之上小学校の高橋幸雄校長は1時間半後、学校に駆けつけた。市の防災センターの指定を受けており、住民ら200人が避難していた。晩秋とはいえ寒い。すぐにカギを開けて、校内に入ってもらった。JR長岡駅のそばということもあり、JRの乗客も来て、深夜には1400人ほどに増えていた。
  学校は2002年夏に完成、採光を考えてガラス窓を広く取った校舎だが、ガラス一枚割れなかった。この小学校は建物が立派で丈夫というだけではない。実は、教育を大切にする「米百俵」の精神が脈々と受け継がれている学校でもある。 
  同校の中田仁司教頭は、社会科が専門で「米百俵」についても詳しい。その歴史と精神を説明してもらった。
  慶応4年(1868年)の戊辰戦争で、長岡藩(7万4千石)は新政府軍の攻撃を受けて焦土と化した。3度の食事にも事欠く中で、支藩の三根山藩(1万1千石、新潟市巻町)から救援米として、米百俵が届けられた。このとき藩士たちが「米を分けろ」と、大参事の小林虎三郎に迫ったが、「目先のことにとらわれず、明日のために行動する」と、翌年にできた「国漢学校」で使う教科書などの費用にあてたという。
自然豊かな山古志地区(現長岡市)。全国的に知られるコイの養殖池も見える
  この故事を山本有三が戯曲「米百俵」で書き、1943年刊行され、知られるようになった。国漢学校は、「人々の暮らしが豊かになるのも、国が富むのも、人民の教育が左右する」という考えのもとに創立され、身分にとらわれず、だれでも入学できた。
  日本や世界に通用する人材を育成するために、教育内容は、国学や漢学だけでなく洋学、地理、物理、医学など多岐にわたったという。明治3年(1870年)、廃藩置県で長岡小学校になり、阪之上小学校へと受け継がれていった。
  この間の卒業生には、明治憲法の起草に尽くした法学博士・渡辺廉吉、明治時代の代表的な洋画家・小山正太郎、詩人・堀口大学、連合艦隊司令長官・山本五十六(旧姓・高野五十六)らがいる。
  戊辰戦争以後、苦難を乗り越えてきた長岡市民ではあるが、太平洋戦争最末期の1945年8月1日、米軍爆撃機による大量の爆弾投下によって壊滅的な打撃を受ける。死者は1400人を超え、市中心部の市街地の8割が焼失したとされる。(以上、長岡市発行の「米百俵」「戊辰・河井継之助 ゆかりの地」なども参考)
  この空襲を予想して、国漢学校当時とそれ以降の教科書や資料は学校の校医の蔵に避難させた。このため、教科書や資料は残ったが、痛みがひどかった。阪之上小学校の先生たちは、戦後少しずつ、この整理・分類を続けてきた。そして94年からは修復・製本作業を手がけ、やっとこのほど終わった。こうして修復された教科書は1300冊近くになり5〜10冊程度をハードカバーにひとまとめにした。いずれも学校内に設けられた「伝統館」のロッカーに保管されているが、この中には明治4〜6年(1871〜1873)ごろの教科書としては珍しいと思われるヨーロッパの地図も載っている。夏には5つの教室と廊下いっぱいに陰干しをするという。「転任して行った先生たちも含めて、この学校に誇りを持っているんです」という高橋校長の言葉にも愛着が込められている。
  戊辰戦争、大空襲、そして04年の中越地震。越後長岡の歩いてきた道は決して平坦ではなかったが、「米百俵」の精神は、どっこい今日も生きている。


財団通じ広がる援助

 中越地震発生の次の年の2005年1月、ベルマーク教育助成財団は、第1次援助として2100万円相当の備品を被害のひどかった長岡、小千谷、十日町の3市、川口町、山古志村(当時)の113校に贈りました。また、この年の7月には援助対象を広げ、第2次援助として長岡、小千谷、十日町のほか、栃尾市(当時)、魚沼、南魚沼市、川口町などの185校に4100万円相当の備品を贈呈しました。
  これらの資金は、全国1120校園から寄せられた支援に財団創立45周年記念事業費などを加えたものでした。
  また、山古志小、中学校の校舎が完成し、06年10月30日には、再開式があり、児童・生徒を激励するために各50万円相当の備品を贈りました。
  また、05年春には、三宅島の小、中、高校の児童・生徒に対して復島激励として各50万円相当の備品を贈りました。
  さらに、2005年3月に福岡県西方沖地震で被災した11校に対して280万円相当の備品を贈呈しました。
  この他、昨年5、6月にかけては、朝日新聞の無料会員組織「アスパラクラブ」から寄せられたベルマークと財団に寄託されたベルマーク合計141万点分を地震被災校で、ベルマーク運動に参加している学校、幼稚、保育園に各1万点ずつ贈りました。
  例えば、種苧原(たねすはら)保育所は、やはり山古志地区にある竹沢保育園と合併し昨年8月に再開しましたが、このマークで、子供用の柔らかいボール3種類のセットなどを購入。写真を添えたお礼状が財団に届きました。