◆◆◆ ベルマークと私 ◆◆◆



記事目次


■ 「読んでみたい本」の筆者・鈴木喜代春さん
これまで紹介した本は2000冊
「運動」に学び、子どもたちに学ぶ
■ 『ベルちゃん』の作者・喜田川まさゆきさん
絵画教室で見た子どもたちの目の輝き
43年前に訪ねたへき地学校と同じだった
■ 『ベルマークのひとコマ』の作者・つのださとしさん
ベルマーク説明会に同行し
PTAの熱気を知りました
■ 「ベルマークファミリー劇場」
プロデューサーと主役インタビュー
夢と感動を紡ぎ続ける平山武男さんとハイジ役の山口リエさん
へき地学校の子たちと 笑いと悲しみを一緒に体験
■ 「理科実験教室」の曾我部國久さん
子どもたちとの出会いと
研究への新たな意欲わく
■ 一輪車講習会のインストラクター・土屋冬樹さん
「うわぁーすごい、すごい」
輝いていた目を忘れない
■ 高山市の「ベルマークの会」代表・長尾智恵子さん
マーク整理を続け14年
備品を買ったときの子どもたちの笑顔が目に
■ 別府市の鶴見小ベルマーク部担当 江田美雪さん
活動に取り組んで8年
集票県一になれず残念
精一杯努力して満足
■ ベルマーク財団のPRビデオ制作の映像ディレクター建部賢太郎さん
撮影の取材先は財団と一緒に
長い時間をかけて選びます


「読んでみたい本」の筆者・鈴木喜代春さん
これまで紹介した本は2000冊
「運動」に学び、子どもたちに学ぶ

 私が「ベルマーク新聞」と、ともに学ぶようになったのは83年からです。
 「ベルマーク新聞」の83年3月10日号に、次のようなお知らせが出ています。「文字が大きくなります」「新企画で紙面を充実」と。新企画の1つとして「教育新連載、教育に人間をとりもどそう」と書いています。こうして私は83年4月10号から84年3月10日号まで12回書きました。これで私は39年間の教育実践をまとめることができたのです。85年11月10日号の「ベルマーク新聞」は、「学ぶ喜びをとりもどそう」「鈴木さんの本出る」と報じてくれました。
 次に84年7月10日号の「ベルマーク新聞」は「郷土の歴史を知ろう」「校長提案に皆が協力」「地域ぐるみで完成」「千葉県松戸市小金小学校歴史館」「ベル活動も熱心」と報じています。私は空き教室を使って手づくりの歴史館をつくったのでした。
 次に「ベルマーク新聞」の87年4月10日号は「今月から『読んでみたい本』の筆者は児童文学者の鈴木喜代春氏になりました」と書いています。そして、この号に私は初めて『読んでみたい本』を書いたのでした。以来現在まで『読んでみたい本』が16年余もつづいています。2千冊余の本を紹介しました。嬉しいです。
 私は「ベルマーク新聞」の皆様に支えられ、「ベルマーク新聞」とともに学び育ってきたのです。出会いのすばらしさに感謝するとともに「ベルマーク新聞」の皆様に、心からお礼を申し上げております。


『ベルちゃん』の作者・喜田川まさゆきさん
絵画教室で見た子どもたちの目の輝き
43年前に訪ねたへき地学校と同じだった

 昭和35年。私は大学3年でした。その夏のこと、5つの大学の漫画研究会が合流して福島県のへき地学校を訪ねることになりました。私にとって複式学級の子ども達に出会う初めての体験です。
 缶詰、紙芝居を入れたリュックを背に二本松駅下車。一行7人はその夜、農家で取りたての野菜の煮ものをごちそうになり納屋に泊めてもらいました。
 塔沢小学校木の根分校の子ども達に紙芝居を見せたり、先輩が黒板いっぱいに自分の連載している漫画の主人公を描きます。その場の子ども達の眼の輝きは、今も忘れられません。というよりも、実はその眼の輝きにこのところ何回もお目にかかっているのです。
 それは、へき地学校へ出かけ「絵かき あそび体験塾」を開くというベルマークの教育文化援助をスタートさせてからのことでした。
 今も変わらぬ、子どもの生き生きとした眼差しに、前回は岐阜県高根村で出会うことができました。
 その眼差しは、私の塾がふだんの授業とはちがう内容であることや、見なれない大人があらわれたという刺激のせいかもしれませんが、いずれにせよ、あの好奇心に満ちた姿は逆に私たちの心を和ませてくれるものです。
 私が初めてへき地の子ども達と出会った昭和35年にベルマーク運動が誕生しました。このご縁は不思議ともいえるし、自然の流れともうけとれます。これからもベルマーク運動を通して子ども達との絆(きずな)を大切にしたいと思っています。


『ベルマークのひとコマ』の作者・つのださとしさん
ベルマーク説明会に同行し
PTAの熱気を知りました

 私は数字(時間)を記憶するのがまったくダメな人間なのです。「20年間ベルマークと関わってきての感想を・・」と、ベルマーク新聞編集長から言われてもピンとこないのであります。つい数年前に、ベルちゃんの作者・喜田川まさゆきさんにベルマーク新聞を紹介していただき、新聞のカットを描き、ベルマーク運動説明会のイラストを描き、最近は一コマ漫画を描かせてもらい・・が、もう20年だなんてアンビリーバブルなのです。絵描きが年をとらないのは、このような時間の認識がないところかも知れません。もっとも好きな絵を描く仕事をしていれば時間の経過も忘れてしまうものです。
 ところが「ベルマーク」は、こんなノーテンキな人間をやさしく、根気よくボランティア活動の精神を耳元で囁(ささや)き続けたのであります。
 その間に、全国各地の説明会で教育にかける熱心なお母さんたちの姿や、阪神大震災で被災した子供たちを取材して、ますます私の頭の中にベルマークの精神が定着してきました。このボランティア活動の輪が将来、争いのない平和な世界をつくる力になるということを・・。
 一方、私はまだまだ一コマ漫画を描き、イラストを描いて、世の中の矛盾や悪を風刺し、皮肉っていきたいと思っています。それに加えて、これからは「ベルマーク」で学んだやさしさのある漫画やイラストを描いていければと思っています。


「ベルマークファミリー劇場」
プロデューサーと主役インタビュー
夢と感動を紡ぎ続ける平山武男さんとハイジ役の山口リエさん
へき地学校の子たちと 笑いと悲しみを一緒に体験

 へき地学校の子どもたちに夢と感動を与えるベルマークファミリー劇場。この運動の40周年を記念して平成12年度にスタートして以来、劇団「東少」による数々の名作劇をお届けしてきました。「アルプスの少女ハイジ」などで主役を演じた山口リエさんと、担当プロデューサーの平山武男さんに、ベル劇場にかける熱い思いや、観客の皆さんへのメッセージを語っていただきました。
 ――公演を見に来てくださったへき地学校の児童やお父さん、お母さんたちの印象は。
 山口さん 私たちが舞台に姿をあらわしただけで拍手が湧き、楽しい場面では声を出して笑い、悲しいシーンでは一緒になって泣き、まさに舞台と一体になってくださいました。
 平山さん 私も、そういう観客の姿を見て、舞台の袖で笑ったり、もらい泣きしました。つくずくこの仕事をやってきてよかったと思いました。舞台は、観客と一緒に作るものだと実感しました。仲間の俳優さんやスタッフも同じ思いを話していました。
 ――特に、心に残ったことは。
 山口さん 公演が終わると、観客の皆さんをホールでお見送りするのですが、ある女性の方が、「感動しました。良かったです」とハンカチで涙をぬぐいながら握手を求められました。胸がつまりました。
 平山さん 九州の会場で終了後、生徒の皆さんが、段ボール箱を抱えて舞台に上がり、自分たちの畑で作ったサツマイモをお礼にくれました。素敵な花束を贈られることは良くあるのですが、このお芋を育てるのに、どれだけの時間と手間がかかったことでしょう。これが、心のプレゼントなんだ、と子どもさんたちから教えられました。
 ――公演会場を提供してくださった地元の皆さんに、ひとこと。
 山口さん どこの会場でも、私たち出演者が使いやすいように、楽屋の設備などにさりげない心配りが感じられて感謝しています。
 平山さん こうした地元の皆さんの努力が、私たちの舞台を一層引き立てて下さっています。本当は、裏方を務めてくださるホールの皆さん全員に客席で見ていただきたいと思っているのですが。
 ――これからのベルマーク劇場の目指す方向などでご意見があれば。
 山口さん これまでの道筋で良いと思います。より楽しく、感動していただけるように、磨きをかけて精進していきたいと思っています。
 平山さん 市町村の合併が進むにつれてへき地の学校も統廃合が進むのかも知れませんが、すばらしい名作劇を本当に観ていただきたい山里や離島の子どもたちのところへ、トラックに舞台装置や衣装を積み、また船便で輸送してでも、届けたいと思っています。それと、もう1つ、一輪車教室やお絵かき教室、走り方教室など、ほかの部門の関係者の皆様と、ベルマーク運動を支えるソフト援助の今後の取り組み方や方向などについて意見を交わしたいですね。


「理科実験教室」の曾我部國久さん
子どもたちとの出会いと
研究への新たな意欲わく

 全校生徒54名という札幌市立定山渓小学校での「ベルマーク実験教室」は、根室沖地震があった日に実施されました。子どもたちは私の演示実験の一つひとつに目を輝かし、万華鏡製作に没頭し、休憩なしの3時間、誰一人としてトイレにも行かず、生き生きと取り組みました。
 実験が終わった時、「ベルマークさんのお蔭で生きる元気をいただきました」と子どもさんが言われた一言が今でも脳裏に鮮明に残っています。
 私がベルマーク教育助成財団の支援を受けて、実験教室を開催するようになった契機も鳥取西部地震でした。地震で被災した小学校の子どもたちを励ますために実施した実験教室が新聞記事になったことでした。
 ベルマーク教育助成財団が、従来のへき地校や小規模校へのハード面での援助からソフト面での支援へと範囲を拡大した時期とが一致し、私のベルマークとの出会いが生じました。ベルマーク実験教室の支援は、多くの子どもさんとのすばらしい出会いを与えてくれ、新たな実験教室への意欲を掻(か)き立ててくれます。
 ベルマーク運動はボランティア活動の草分け的存在で、私のこの15年間のボランティア活動の原点でもあります。ボランティアに定年がないように、生涯現役として、ベルマーク運動に携わりベルマーク運動の鐘を全国津々浦々までに響き渡らせたいものです。


一輪車講習会のインストラクター・土屋冬樹さん
「うわぁーすごい、すごい」
輝いていた目を忘れない

 へき地学校に対するソフト援助のさきがけになった一輪車講習会は財団の援助事業としては1997年に始まりましたが、実は協賛会社の宮田工業の協力で89年に行われたのが最初です。通算するともう15年になります。
 当時は設備援助として1000台ぐらいの一輪車がへき地学校に贈られていました。しかし先生にとって苦手の種目です。財団には「専門家による講習会を開いてくれないか」という要望が寄せられていたそうです。
  その第1号が新潟県高柳町の門出小学校でした。児童数33人の小さな学校ですが、講習会には近くの老人クラブのお年寄りや保育園児のほか、仕事を休んでかけつけたという地区の人たちで体育館は満員でした。デモンストレーションを行うと「うわぁ〜すごい」と子どもたちの輝いた目が今でも印象的です。
 学校をあとにする時には、校門の前に子どもたちがずらりと並んで、姿が見えなくなるまで手を振り見送ってくれました。子どもたちの純粋な気持ちに「来てよかった」という思いが、充実感とともにこみ上げてきました。
 講習会を重ねるうちに、技術もさることながらチャレンジ精神と助け合いの大切さを伝えることが大事だ、と考えるようになりました。出来ないことに挑戦して、達成した時の感動を味わうことは教育の原点だと思います。また、自分の得意なことを人に教え、出来ないことを他人から教わる、子どもたちの間に助け合いの心を育てるのも重要なことです。講習会から学んだことは、私にとっても大きな財産になりました。(土屋さんは全日本代表として数々の世界大会で活躍、最近は協会の公認指導員として後輩の育成や普及に努めています)


高山市の「ベルマークの会」代表・長尾智恵子さん
マーク整理を続け14年
備品を買ったときの子どもたちの笑顔が目に

 女性ばかり10数人のグループで毎週1回、ベルマークを整理するボランティア活動をしています。結成して14年。和気あいあいの雰囲気は、奉仕というより自分たちの生きがいに通じるものがあって、やらせていただいている、と感謝している次第です。
 03年春からは、グループホームの方々も参加され、一段とにぎやかになりました。小さなマークを切る手さばきも鮮やかですし、何より喜んで作業されていることに「新しいボランティアのケース」と自画自賛しています。
 私がベルマークと出会ったのは40年も前。勤めていた小学校で児童会のベルマーク係りの顧問をしたからです。会社別に台紙へマークを貼る細かい作業でしたが、熱心に取り組んだ結果、マークが学校の備品に変わったときの児童の笑顔が今でも目に浮かびます。
 退職後、福祉関係の仕事に就いたことから再びベルマークと出会いました。そして、せっかくのマークの多くが生かされないままになっていることを知ったのです。
 1990年、高山市の中学校の名義で参加。高山市内や近隣町村の学校、一般市民から届くマークの整理・集計を続け、現在、累計400万点を目指してがんばっているところです。
 ベル預金での買い物は、マークが届けられた学校や児童らの注文にこたえます。最近の傾向では、学校の備品だけでなく、児童たちが普段交流している福祉施設へ贈るため車いすなどの備品も目立ちます。
 小さなマークを生かす。それが、子どもたちの驚きと喜びを生むだけでなく、施設の方々との心の交流にも生かされる――。うれしく、大きな収穫といえるでしょう。
 これこそ、私たち「ベルマークの会」会員の生きがいであり、励みでもあるのです。


別府市の鶴見小ベルマーク部担当 江田美雪さん
活動に取り組んで8年
集票県一になれず残念
精一杯努力して満足

ベルマークの1点1円の重みは、運動に取り組んで初めて理解できました。
 ベルマーク運動は、参加校だけのためではないんですよね。国内、国外の恵まれない子どもたちのためにも生かされており、知らず知らずのうちにボランティア運動にも参加していることがわかり、活動の励みにもなりました。
 私は子どもが5人いて、初めての子どもが入学したころは、下の子の育児でPTA活動はできませんでした。4番目の長男が入学して初めてベルマーク部員になり、私のベルマーク活動がスタートしたわけです。
部員を1年間体験して面白かったですよ。マークを仕分けして、切りそろえる作業も苦にならなかったですね。私の性格にむいているな、と思いました。
 副部長の2年目に親しくしている家田治代さんが部長に就任しました。前部長のときに「ベル便りコンクール」に初入選しており、家田さんと「私たちになって入選しないのはいけない」と、一生懸命、ベル便りを作りました。
 内容も、子どもたちが読んでくれて、家に持って帰るように工夫しました。ベル便りも、別に町内の回覧板用に年4回発行して、マーク収集で地域の協力を得る努力もしました。
 副部長のあと5年間、部長でした。「ベル便りコンクール」も8年連続入選を果たしました。私がやめてからも2年連続入選しているようで、10年連続入選になり、素晴らしいですね。
 部長のとき、年度別の収集点数で県一を目指したのですが、どうしても1位を続ける大分市の大規模小学校に追いつけず、悔しい思いをしました。でも、悔いは無かったですよ。精一杯努力して2位になれたのですから。大満足でした。
 2001年3月にやめるまでの8年間のベルマーク活動は、ほんとうに楽しかった。1月には初孫が生まれる予定です。近くにおり小学校に入学すれば、またベルマーク活動ができるのではと、夢見ています。


ベルマーク財団のPRビデオ制作の映像ディレクター建部賢太郎さん
撮影の取材先は財団と一緒に
長い時間をかけて選びます

 ベルマーク運動は、「世界の子供たちによりよい教育環境で育ってほしい」という願いを込めたボランティア活動です。
 この活動の様子と、事業の内容を紹介するビデオ映像の製作に参加しました。
 私の担当は、シナリオを書いて演出をし、撮影したビデオを編集して作品にまとめることです。
 映像づくりは、まずシナリオを書くことから始まります。財団事務局の方々からお話を伺ったり、活動の現場の下見をしたりして構成を考えます。関係者と何回も熱の入った打ち合わせを行い、シナリオが出来上がりました。撮影取材をお願いする学校や団体を決めるのは、大変でした。それは、ユニークで熱心な活動をしているところが多いからです。
 時間に制限のあるビデオでは、ほんの一部の活動しか紹介できません。
 地域ぐるみでベルマーク運動に取り組んでいるところや、親と子の協力がしっかりしているところ、積極的に友愛援助を行っているところ、子供たちが自主的に運営しているところなどを中心に選びました。
 撮影取材を通して感じたことは、大人も子供もこの運動に参加されている方々がとても熱心なことでした。
 子供たちにとっても、このベルマーク運動のボランティア活動を通して、社会との絆(きずな)が深まり、やがて思いやりの心が芽生え、助け合うことの大切さなどが育まれていくことでしょう。
 なにかと暗いニュースが多いこのごろですが、ベルマーク運動のようなボランティア活動を通して、少しでも明るい世の中ができればと思います。