校舎、体育館に校内放送用テレビ、記念碑
(2016/09/28)印刷する
地震から5カ月たった熊本市、益城町
震度7の大地震に2度襲われた熊本市と熊本県益城町の学校を、9月上旬に訪ねました。被災から5カ月近くがたち、必要な設備や支援は日がたつとともに変わり、まだまだ困っておられる様子がうかがえました。
【熊本市立東野中】
熊本市東区にある市立東野中学校は、今も普通教室のある校舎が使えません。建物がゆがんで、金属の窓枠はねじれ、廊下や壁はひび割れ、波打っています。立ち入り禁止になり、全棟の建て替えが決まっています。体育館は地震後、避難所になっていました。
松永洋校長によると、5月に避難所が閉じられたあと、体育館に仕切りを入れて授業を再開しました。先生たちの声が響きあってにぎやかではあるものの、互いに聞きづらかったそうです。今、生徒たちは校庭にできた仮設校舎で学んでいます。
理科で使う顕微鏡やビーカーも壊れ、これらは義援金で買い足すことができました。ただ、本や書類を整理するキャビネットなどには手がまわっていないとのことです。
生徒の72世帯が全半壊し、仮設住宅をはじめ遠い校区外から24人が通学しています。
【益城町立飯野小】
熊本市の東側、上益城郡益城町は二度の大地震で最も揺れた地域です。幹線道路沿いの町並みや田園地帯の集落のあちこちに、倒壊した家屋が続いています。
町立飯野小学校は田園地帯にあります。藤川寛教頭は4月14日夜の最初の地震のとき、PTAの会合で校内にいました。グランドピアノがひっくり返って壊れ、金庫も倒れたそうです。校長と連絡をとって、住民のために学校を開放しました。運動場で車中泊する人や、車内も怖くてブルーシートを敷いて地面で横になる人もいました。
4月16日未明の本震の後は雨が続き、教室を開放、体育館は支援物資の集積所になりました。
児童世帯の3割が全半壊しました。藤川教頭は熊本市内の自宅から通いましたが、地震後は道路が寸断され、「渡れる橋がない」状態でとても困ったそうです。
いま、本来の運動場には仮設住宅が並びます。代わりの運動場が隣接する田んぼにできました。二学期は前倒しで8月22日から始まりました。壊れたものはたくさんありますが、藤川教頭は「子どもたちが外に出る機会が増えるように、一輪車があればいいですね」と校長先生と話しているそうです。
【益城町立木山中】
益城町立木山中学校は、被害の特に激しかった町中央部にあります。学校を訪ねると、校舎間の渡り廊下がテントをつないだ仮のものになっているのが目を引きます。
柴田信孝教頭による、もとの渡り廊下は二階建てで、校舎の二階と二階もつなぐ構造でした。これが壊れて危険になったため、渡り廊下を撤去するまで、学校全体が近くの別の小学校に間借りしていました。いま、二階の渡り廊下の跡は黄土色のパネルでふさいであります。
中学校に戻ることはできましたが、体育館は鉄骨が曲がって危険なので使えません。永瀨善久校長によると、体育大会の練習も天候を見ながら運動場でしていて雨が降ると授業を組み替えます。
地震直後は生徒の75%が自宅に住めず、避難していました。今も、生徒の25%は遠い仮設住宅や親せき宅から路線バスで通学していて、夕方6時のバスに遅れてしまうと、次は7時になるのがきついといいます。
地震当時は水道の配管が壊れて校内が水浸しになり、図書室の本もたくさん廃棄しなければなりませんでした。
【小中学校長会】
熊本県小中学校長会の話では、広い地域で多くの学校が被害を受けました。体育館や教室を避難所として提供したとき、貸し出した毛布やマット、スリッパ、ラジカセ、血圧計、電源コードなどが返ってこなかったり、壊れたりした例があります。一つひとつは少額でも数が多く、困っている学校が多いそうです。教室のテレビがたくさん壊れましたが、校内テレビ放送設備がアナログのところが多く、最近のデジタルテレビを買っても校内放送が見られないので、そのままになり、テレビが見られない教室がたくさんあります。校内放送のデジタル化にはたくさんの予算が必要となり、話が進んでいません。校内の記念碑が倒壊した学校も多く、この復旧の予算もめどがたちません。在校生や卒業生の思い出のつまった記念碑をどうするか、先生たちは悩んでいるそうです。